武士の台頭とともに奥州の支配権をめぐる争いは、平安末期の平泉を拠点とする藤原氏以降、 源頼朝に任命され多賀城に常駐する伊沢(留守)氏と宮城県北部と岩手県南部を支配した葛西氏の関東御家人たちや建武の新政以後の南北朝動乱の中、 その体制は目まぐるしく替わる。 東北在地の中小豪族はこのような政治状況のなかで方々浮き沈みを繰り返す。 秋保郷においてもこういった情勢とは無縁ではありえず、特に室町期後半のいわゆる戦国時代には、 最上氏・国分氏・伊達氏といった大名に取り囲まれ、常に侵略の危険にさらされていた。秋保氏は巧みな支配と政治的な駆け引きを保ったことが知られ、厳しい時代を生きぬいている。 いずれも巧みに自然地形を利用した防御性のきわめて高い場所に立地し、 一度敵の侵入があれば、お互いに連絡をとりつつこれに備える仕組みになっていた。 つまり、これらの城・館は外敵の侵入を防ぐということにおいて大きな役割を果していたと考えられている。