この館は秋保氏が本城である楯山城に外敵の侵入を防ぐため、二口街道に隣接して築かれた防御棚の館として設置されたのがはじまりだといわれている。 秋保氏15代盛房のときに本城を大曲城主(現名取市)の長井氏に奪われ、一時山形に避難のあと秋保領民の協力のもとに再び奪回に成功するという事件が起きるが、 盛房はこれを期に以後この長館を本城とした。
その後18代直盛のとき秋保氏は所替えになり、一時は廃館となったが、藩の重役を務めた23代氏盛に至って再び秋保家の居館として家中屋敷と合わせ本格的な整備が施された。 50アールが居館跡、1ヘクタールが家中集落で、整然と並ぶ家々は現在も当時のままを垣間見ることができる。
本丸までは三重の土手が巡らされている。名取川と獺沢の合流地点に突き出した舌状台地に立地し、周辺は断崖を有し天然の要害となっている。