山寺の伝説では普通の人間で狩猟民であっとされている。磐司磐三郎は猿王(日光の猿麻呂)の子で、初め奥州名取川の渓谷(二口谷)で狩りをしていたが、のちに山寺に移り今の千手院に住んだ。
山寺千手院の入り口に一つ石というところがあって、いまもこんこんと清水が沸きだしている。磐司磐三郎が矢を研いだ所だとされ矢研清水(矢研清水池)という。この清水の上に磐司が弓をかけた松があった。別に笠松とも言われた。
磐司磐三郎が居するそこは、岩壁の迫り合う険しさは前人未踏の聖地にふさわしく、深山の幽玄な山容を成していた。岩の根を巡る清冽な川の響き、南面の陽をうけて迫り来る畏怖の感をもつ岸壁の山の偉容に、円仁は心の奥深く天立石寺台仏教の東北本山にしようと決意、この神秘的な川の流れと山容の奇景を対面石上より仰ぎ、山寺霊域開山の夢を賭けたという。
対面石のところで面会し談合した二人は、互いに語り合うなかで共に下野(栃木県)の同郷人であることがわかり、もって大師の志と仏教の徳に感銘を受け、慈覚大師の開山に全力を尽くして助力したため、のちに地主権現として祀られた。
磐司磐三郎は晩年、山寺が宗教活動の聖地となると狩猟の生業が成り立たないため後に秋田に移住したと語り継がれている。
磐司磐三郎の祠は五大堂の岩窟にある。
高さ一尺三寸の木彫りの座像が安置されている。もと狩人であったということで傍らに石造磐司祠りの犬がおいてある。(現在、磐司磐三郎の座像は風化を避けるため、根本中堂脇の秘宝館に収められている。)
磐司磐三郎が慈覚大師の徳を受け動物の殺生をやめたことにともない、喜んだ動物たちが磐司に感謝してシシ踊りを踊ったというシシ踊りの伝説がある。毎年8月には磐司祠を主祭にシシ踊りを奉納するという「磐司祭」が行われている。