3.3 二口における慈覚大師円仁の巡錫伝説 (高瀬見たり聞いたり・山寺千手院考から)
休石碑 円仁は名取川を逆上り、その時には未だ開設されていない二口番所あたりを過ぎると清水峠を越え(山伏峠は山寺開山後に開通)高野村(現高沢)に下り、合の原という所にさしかかる。ここを過ぎたころ、喉が乾いて仕方ないので、道の端に大きな平たい石の下に沸く清い水で喉を潤しその場にしばし休憩をとったという。高瀬の平石水という場所の名称はここからくるもので、今の神明神社の裏に大きな石があり、最近まで清水が沸いていたという。
休石碑 さらに暫く歩くと日は傾き夕方となり、日は西に没し大師はひどく疲れ果て、思わず路傍の石に腰を下ろして休まれたという。高瀬の休石という地名もここからくる。地元ではお堂を建てて今も大事に祀っている。
また街道沿いの三宝岡地区には、この頃円仁の創建(856年)と伝わる最上山風立寺(今は寒居山風立寺)という天台宗の寺がある。山寺立石寺開基の前に円仁によって開山されたものとして伝わり、今もなお高瀬の人々によって厚い信仰がなされている。
円仁は風立寺開基のあと休石から、高瀬川支流を上り坐道峠を越え芦沢川(旧芦沢村)へくだったとされ、そこから山寺千手院へ向ったと伝わっている。高瀬から山寺へのこの峠は、当時狩猟民族の生活道として往還に使われていたことが知られ、峠を上りつめた頂上で大師が合掌をしたといい、下りは山寺という聖域に向かう峠ということから坐道峠と名付けられたという。
山寺芦沢(旧芦沢村)では、円仁はこの坐道峠を越えた際、芦沢院付近で荏胡麻の切り株を踏み、その刈株を足裏に刺してしまい苦痛に絶えながら、そこに休んだという。村人は円仁の苦痛に心を傷め、その後荏胡麻の栽培を禁止することを円仁に誓い、以来申し合わせによって荏胡麻栽培禁止をかたくなに守っているという。