北関東から東北の奥羽山系の各地に残る磐司磐三郎伝説の舞台は、広大な活動範囲を有し自然の恵みをうけながら、豊かな東北山岳民俗の生活文化を伝えている。
磐司磐三郎の生きた時代、日本史の中ではどうゆう位置にあったのだろうか。伝説の中の重要人物「慈覚大師円人」の生きた時代、8世紀から9世紀の東北地方と大和政権にスポットをあてたい。
生活の基盤を狩猟採取に置き、広大な山野を駆けまわっているものは夷(えびす=未開人)であるとした。取り分け山の幸によって生きる縄文的な生活様式をかたくなに踏襲する連中を山夷と称し(「蝦夷」という名称もこの辺りからくる毛人ともいう。)奥州はまさにその一大拠点でこの頃の聖地とさえ言っていい。
「わたしが聞いているところでは、東夷は性質が荒々しく、略奪を業とし、村に首長がなく、山には邪神が住み、平野には鬼がいて道をふさぎ人を苦しめているとのこと。冬は穴に宿り、夏は木の上に巣を作り、獣皮を着て、獣血を飲み、山野を鳥や獣のように飛び走り、恩をうけてもすぐ忘れ、恨みには必ず復習し、付近の住民の農家を略奪し、弓矢や刀を隠し持って集団を組み、討伐すれば草原にかくれ、山地に逃げ込むので手のくだしようがないという。東夷のなかでも蝦夷という集団が最も強暴と聞く。」