名取の御湯碑
所在地:仙台市太白区秋保町湯元字薬師 ホテル佐勘の玄関西側にある「湯神社」のかたわらにあるこの石碑は、秋保温泉の由来を記している。幕末1864年、仙台の国文学者保田光則の撰文(文書作成)によるもので、風化のため判読には容易ではないが、最頂部に横書きて「名取御湯碑」と大書きし次のようなことが記されている。
「神代の昔、出雲の国の大巳貴命(大国主命)と小彦名命が協力して国土経営を始め浮世に落ち種々の病気て苦しんでいる民衆を救うため、まじないや医療の道を始められたときから温泉に入るという習慣がはじまった。
古記に記された多くの温泉の中に、陸奥国では名取御湯・佐姿古御湯・玉造の御湯が記されており、名取の御湯は「拾遺集」や)「大和物語」にも詠まれている。
古来この温泉の効能を聞いて遠近から湯に入りに来る人々が絶えなかったが、安政2年大地震が起こり湯の湧出が止まってしまった。湯守寿エ門はこれを憂い嘆いて神仏に祈り各所を回って信心を尽くしたところ、翌年もとのように湧きだしてきた。
この寿エ門の先祖は、小松(平)重盛公を祖とする人物が秋保郷に逃れてきたときに、これに随従してきた7人の侍の一人と伝わる。以来この湯守として代々栄えてきたのも、また入湯してその効用があるのも、皆この湯神の恩恵なのである。入湯者も宿の主人も等しく湯神を尊ばなければならない。」
楽寿園の碑
所在地:仙台市太白区秋保町湯元字寺田原 秋保温泉の観光案内所の北側に巨碑がある。元は覗橋の北東側磊々峡に隣接して立っていたが近年移設された。頂部に「楽寿園」と大きく書かれその下に漢文体で、秋保温泉の湯が地震て湧出が絶えたとき、再湧に尽力した湯守「寿右エ門」の功績を讃えるとともに温泉客の増加につなかったことを記し、風光明媚な名取川沿いのこの磊々峡一帯に公園を設けたということが書いてある。
「寿右エ門は、安政2年8月大地震で温泉が埋没したとき、人夫を集め掘っさくしたり、山伏を呼んで祈祷をさせたりしたが一向に湧き出る気配がなく出費がかさむばかりてあった。憤慨した寿右エ門は湯殿山に百八十日間の参籠をし切なる祈願をした。すると翌年の2月突如として湯が湧きはじめた。人々は信心が神仏の霊に通じたのだと語り合い、寿右エ門が死力を尽くさなかったならば秋保温泉も亡んでいたかもしれないといった。
その後温泉客が増えるにつれて、秋保温泉には遊楽の施設が欠如していることが感じられるようになった。山水を兼ね備えたこの公園(磊々峡一帯)は楽しみが豊富で、ここに遊ぶ者は病の快癒を招くに違いなく、名称を楽寿園とした。」撰者の友部伸吉は、水戸の出身で明治時代を通じて東北の著名な文士で、名勝地磊々峡を壮大宜つ幽玄に描写した文章も記されている。