秋保温泉の歴史は古墳時代の後期、第29代欽明天皇(在位539年~571年)の頃に始まると言われている。 欽明天皇は在位中に小瘡(皮膚病)に感染しI当時皮膚病治療の定番だった温泉療法と祈祷を中心に治癒を試みるが、どの温泉を用いても効果があらわれす病床に伏していたという。そのような中、 古代東北他方の一温泉である秋保温泉の湯も遠く都のある大和の地へ搬送され天皇が沐浴をされる機会を得ることになるが、なんと病は数日で全快されるという快挙をなし遂げる。
天皇はその喜びを歌にも表し、秋保温泉は御製を天皇より賜る。
記録に出始める秋保温泉はこの頃をはじめとして、以後「拾遺集」「大和物語」などにも歌われ、 名取川の上流には「名取の御湯」といわれる霊験あらたかな温泉があったということが遠く大和地方にも知られていた。 以後皇室の御料温泉として位置づけられ「名取御湯」と「御」の字を加えて尊ばれるようになった。 第84代順徳天皇のときには、皇室が選ぶ日本の名湯9ケ所の中に、信濃・名取・犬養の三温泉だけが「御湯」という称号をつけており、古来これらは「日本三御湯」と称せられるようになった。
奈良平安期の秋保温泉は、大和朝廷の東北の拠点施設たる多賀城に赴任してくる中央の国司官人たちの保養及び療養をする温泉として栄え、湯元を中心に人々が集まり湯の郷としての風景が想像できるものである。
中世戦国時代、平重盛の末喬が秋保に逃れてくる平家落人伝説が秋保郷の歴史と交錯するが、 この頃誕生した秋保郷の小領主秋保氏の活躍の中に、やはり同じ落人一派に随従してきた家臣の子孫が秋保温泉の「湯守役」を代々勤めながら、乱世のなかに秋保温泉の湯を守ってきたという伝承がある。現在のホテル佐勘の祖がそれで、 伊達政宗が仙台移住に際しては湯守とあわせ「肝入役」「山守役」を果たすとともに秋保郷と温泉の繁栄に貢献するという記録が数多く残されている。
藩政時代、もともとは藩主政宗の入浴場「湯小屋」の建設ということから、江戸期の整備がはじまったと思われるが、
やがて源泉付近に宿泊所を設け入湯者から湯銭を取るようになり、庶民にも広く親しまれる温泉として賑わいをみせるようになった。
当初、湯守の佐藤家(佐勘)だけで宿屋をしていたが、後に佐藤家の屋敷の一隅を借りて湯治客相手に商いをしていた岩沼町の源助(岩沼屋の祖)が一部屋敷を譲りうけ旅籠屋を開設し、また、水戸の浪人惣右エ門(水戸屋の祖)も佐藤家にわらじを脱ぎのちに佐藤家の娘と縁組をし宿屋を開設することになる。 この頃は浴場は一ケ所て、湯治客は浴湯のあとそれぞれの宿屋に分散して宿泊し、温泉療養つまり湯治をしていた。
大正に入ると秋保温泉と長町の間に、秋保石の採掘運搬を目的とした馬車軌道が開通し間もなく秋保石材軌道へ進展、 そして秋保電気鉄道への発展開業は、戦後にかけ湯治客の輸送に大きく相乗効果をもたらし、近代温泉郷の原型を作り上げながら入湯者を延ばしてきた。
昭和36年、秋保電鉄は自動車輸送の発達にともない廃止となったが、秋保温泉は近代リゾートホテルの温泉郷として更なる発展をとげ、 全国レベルの温泉に名を連ねるなどその隆盛は著しい。古来より受け継がれてきた雅びな自然環境と秋保大滝や磊々峡をはじめ周辺地域の優れた景勝地とともに、仙台市民の憩いの温泉として広く慕われている。