秋保歴代当主

秋保氏の発祥は、平氏が壇ノ浦に破れその一族残党が全国各地に散々となり、奥地に隠れ住んだという平家落人伝説と結び付き、平清盛の子重盛(小松内府)を祖とする平長基という人物が、秋保郷に落ちのび秋保氏の祖となったといわれている。

  桓武天皇 ― 平 清盛 ― 重盛 ― 資盛 ― 資元 → 秋保郷へ 伊達家
居城地
並木 4代目 長基新蔵
(新川初小屋にある五輪塔は長基の墓とされている)
常陸国
(茨城)
楯山城 5代目 基盛(小松三郎左ェ門) 墓は高舘山秀麗斎
一時並木に潜伏後、名取川対岸楯山に居を構える1295年、名取郡を賜る。
(鎌倉将軍[北条氏])
6代目 俊盛 小松寺を開山(1323年)このとき裏山に愛宕神社勧請
7代目 盛定
秋保5ヶ村を所有する。
(足利尊氏から奥州深題を任命された吉良貞家より承認)
──秋保氏を名乗る──
8代目 重盛
9代目 盛家
10代目 広次
11代目 広継
12代目 康広
13代目 政光
14代目 義光
15代目 盛房(平次太郎)

明応9年(1500年)盛房は、大曲城主(名取市)長井晴信氏の奇襲を受け楯山城を放棄、最上義守氏(山形)を頼って逃亡する。
12年後、体制を建て直しかつ村民の援助を得て楯山奪回に成功する。
この時戦勝を祈願して、信州より諏訪神社を勧請、法印は羽山光善院より入社し、間もなく熊野神社を併合する。
16代目 則盛(伊勢守)
伊達氏天分の乱に加勢、その配下に属する。
伊達氏との主従関係の発生はこの頃。
伊達郡





1536年
米沢城
長館 17代目 勝盛(美作守・大善亮)
楯山城消失、一時小松寺へ陣屋を構える。このとき名取秀麓斎の和尚を招き向泉寺を創建する。
その後、一族は最上に居を移す。時の和尚は、城を捨てていくような殿様を嘆いて秋保家と縁を切る。
その後、勝盛が帰村の際二口峠まで迎えに行った大雲寺住職の忠誠に応え、以後檀家を大雲寺とする。
1591年
岩出山城
刈田郡
小村崎村
18代目 直盛(平五郎・弾正忠)
政宗の命により、葛西大崎一揆討伐へ一族を率いて参陣、平定する。
天正19年(1591年)、秋保氏は正式に伊達家家臣団(御一家)に格付けされる。
伊達氏の仙台移住を期に、慶長8年(1603年)刈田郡小村崎村(現蔵王町)へ所替。秋保郷は伊達藩直轄となる。
長館は一時廃館となる。
1600年
仙台城
舘山原
御屋敷
19代目 定盛(播磨・雅楽) 舘山原墓地
寛永3年正月(1626年)、脇指「瀬戸丸」(宝刀)を献上するとともに、秋保家系図を政宗の上覧に供し、御一家の家格だったことを言上、秋保への復帰を請願する。
承応元年(1652年)、伊達忠宗から楯山原の御屋敷場を賜り、刈田郡小村崎村から9軒の家中を率いてふるさと秋保へ帰郷。
20代目 将盛(玄蕃・豊前) 舘山原墓地
21代目 利盛(豊前・玄蕃) 舘山原墓地
22代目 良盛(豊前) 舘山原墓地
長館 23代目 氏盛(外記) 墓は大雲寺
若くして藩政に力を発揮、昇進いちぢるしく33才の若さで藩政の最高機関たる奉行職(家老)に抜擢!
天明元年(1781年)天明の大飢饉による伊達藩財政の理財に功績を残し、知行高を千石に加増され、名実共に藩の門閥となる。合わせて長袋村を拝領し、名取川対岸の長館址へ移住。家中集落「館」と長袋「町」を整備する。
24代目 昌盛(外記) 墓は大雲寺
25代目 賢盛(外記) 墓は大雲寺
26代目 豊盛(平次太郎) 舘山原墓地
27代目 安盛(茂松) 墓は大雲寺
28代目 研広(墓は東九番町裁松院)秋保から仙台市内転出
29代目 定盛
30代目 基盛
31代目 秀盛 東京在住


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