二口街道の歴史

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 ニロ越え最上街道(秋保街道)は、仙台と山形を結ぶ最短ルートとしてその歴史は古く、平安時代、山寺・立石寺を開基した慈賞大師が開いた道といわれている。室町時代以降近世は、塩釜から塩を運んだいわゆる「塩の道」そして、月山を主体とした出羽三山へお参詣する信者が通行した「信仰の道」でもあった。仙台中心部を出発し秋保地区に入ると,古くから長袋,馬場,野尻等の集落があり、現在でも生垣に囲まれた旧家がところどころその姿をとどめ、春夏秋冬いにしえの情景を垣間見ることができる。


 陸路輸送が人馬の背に頼っていた時代には、道路の傾斜のきつさよりも距離の短さが重視され、距離さえ近けれはある程度の勾配は問題にならなかったという。ニロ峠を越えるニロ街道はその最大難所が標高934mどういう高台にありながらも、仙台と山形を結ぶ最短距離の経路として交通量が多く、仙台庶民の出羽三山参りをはじめ、生鮮海産物を扱う行商人を中心とした物資輸送のメイン道路としての記録が数多く残されている。名取川渓流沿いのこの街道は涼しく、取り分け魚の鮮度を保つのに絶好の環境を有していた。
また同時に伊達・最上両氏の最短距離の経路ということから、街道沿いには領地境界警備のための史跡や舘跡が配置され、 それぞれ重要な役割を果たしていた。


 明治維新後、資産家が私費を投じてニロ峠の一部を改修、人馬を対象とした有料道路を開設したが、明治15年関山街道(国道48号線)の車道開通にともない、街道を起点に繁栄していた各集落とともに急激に衰退し、現在に至っている。



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