歴史伝説
- 平家落人伝説
- 文治元年平家一門が壇ノ浦に滅んだので、小松内大臣重盛公の孫、新蔵人長基は、 重盛公の守本尊であった阿弥陀如来像等の宝物を携え一時長崎に潜んでいたが、 いよいよ追討の手が厳しくなったので、その娘が宮仕えをしていたという縁故を頼りに、 紀州熊野八庄子左衛門極国長のもとに潜伏した。この時肥後守平貞能も加わり、 主従十七人は、羽黒山参詣の国長の嫡子阿曼坊宥意を先達として、 山伏姿に身をやつし4月に熊野を出発し、幾多の山河を跋渉して翌二年春に辛うじて奥州名取郡秋保郷並木にたどりついた。 一行は重盛公の遺骸と経文を笈に納めて葬り、その上に目印として樅の木を植え、 かつ阿弥陀如来像を安置して暫く暮らしていたが、後に貞能(定義)は大倉へ、 阿曼坊は羽山へ移り、基盛は対岸に館山を構え、後の秋保氏の祖となった。
- 磐神磐三郎伝説
- その昔、小東峠を越えて大行沢添いの杣道(そまみち)を下ってくる二人の旅姿の女があった その一人は主で、連れの女は乳母のように見受けられた。暫く下り、 東山から流れてくる渓流に出会ったので喉を潤し、休息していたところ、 突然姫が激しい腹痛を訴えた。乳母は薬を求めて、来た道を引き返し、集落へ向かった。 残された姫は悶え(もだえ)苦しんでいたが、ふとみると異様な怪人がそばにいた。 姫は殺されるものと観念し、失神した。乳母が戻ってきたときに姫の姿はなく、 呼べど探せどその姿は見えず、滝に身を投げた。姫が目覚めると、木の葉を敷いた洞窟にいることがわかった。 不思議なことに腹痛はすっかり癒(い)えていた。空腹を覚えてあたりをみまわすと、 あの怪人が近づいてくる。驚きのあまり逃げようとしたが、外には猿がいて中を覗いていた。 決心して怪人の方をこわごわ見ると、その怪人は全身白銀で被われた大猿である。 しかし危害を加える様子もなく大きな手に木の実を盛って、食べろと差し出していた。 恐る恐るその一つを食べてみると、何とも言えない甘酸っぱいおいしさである。 それから姫は群猿にかしずかれて大猿との奇妙な山窟の生活が始まり、 やがて二人の間に生まれたのが磐神郎と磐三郎の兄弟である。 磐司岩周辺は彼等の生まれ故郷である。 尚、磐神磐三郎については、他にもマタギの元祖と仰がれる説がある他、慈覚大師に説教を受け改心した話や、 鬼屋敷の鬼を懲らしめた話、化物沢の怪獣胎児の話など数多くの伝説が残っている。 彼等の生活した洞窟は今の裏磐司の千人洞、姫が腹痛を起こしたのが京淵沢、乳母が身投げした滝は梯子滝といわれている。
- 小抱沢伝説
- 馬場地区を統括していた秋保氏の分家「馬場摂津守秋保定重(馬場氏)」の居館は、 豊後館を攻めようと闇にまぎれて二口峠を越えてきた山形最上氏の軍勢は、 現在の本小屋付近「馬立原」で先陣を整え、「昼野」で食事をとって鋭気を養い、 二口街道を野尻の集落へと進軍してきたという。 野尻の集落では、戦闘に加わらない年寄りおんな子供は集落の北側「小屋館山」へ非難、寝食を共にし、いくさが終わるのを待った。 …しかし、最上氏の軍勢は本ルートである二口街道を進軍せずに野尻の集落から迂回越えどの沢を利用して本砂金へ一旦出てから再び上原を越え、 館主が留守の「豊後館」へ奇襲攻撃をかけた。 豊後館は即時占拠され婦女子は捕虜となった。即座に引き返し応戦した馬場氏だったが、 人質がらみのいくさに苦戦、戦局はもはや最上氏の手中と入るかと思われたその時、 馬場氏の奥方が子供を抱いたまま館の近くを流れる断崖絶壁の「子抱沢」(沢の名称はこれを由来)に身を投じた。 馬場氏は急死に一生を得、全開戦闘のうえこれを奪回、最上勢の撃退に成功している。 しかし、それ以来この沢の付近には夜な々妖怪が出没するといわれたり、 どこからともなく悲しい泣き声が聞こえてきて旅人を恐怖に落とし入れるという怪事件がたびたびおきたという。 これを亡き妻のたたりと考えた馬場氏は妻の霊をいさめる鎮めるため館のすぐ隣に西光寺という寺を建設、多数の犠牲者とともにその霊を弔ったという。
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