磐司磐三郎物語

奥羽山脈に伝わる磐司磐三郎

2.1 狩りの達人マタギの祖・・秋田・岩手マタギに伝わる万事万三郎説

(1)「山立根本巻」・・(盤次盤三郎、盤司盤三郎、万二万三郎、万治万三郎など)

◆清和天皇のとき日光山の麓に万事万三郎という弓の名人がいた。
 この頃、上野の赤城明神と下野の日光山権現とが戦い、日光権現が苦戦した。
 赤城明神は十八尋(約30m)の大蛇であってどうしても勝てないので、日光権現は万事万三郎の力を借りるために白鹿に化けて日光山のお堂前で万三郎と面会、赤城明神征伐を依頼する。もし退治してくれたるときは日本全国の山々岳々の知行を得させるという約束をし、神通の矢二本を授ける。依頼を受けた万三郎は赤城明神の出陣に待機、南無無量寿覚仏と唱え、大蛇の左目を射った。赤城明神はかなわずと白雲と化し上野の空に飛び去った。
 日光権現は歓喜し京都へ上り天皇に言上、日本一の弓の名人万事万三郎の功績を報告した。天皇は手柄として御朱印を万三郎に与え、今後どこの山々に行ってもよい「山立御免」となった。

◆万事万三郎は狩人の先祖である。
 万三郎は天智天皇より十七代の子孫であると定め、日本一の弓の名人である。
 日光権現によってその功績が認められ、このことを朝廷に上奏した結果、日本全国の山々岳々の知行を許され、正一位左志明神の位を授けられた。この神は立火死火を忌むゆえ、狩人はそれに従わねばならぬ。また、生き物の肉は堂宮でも食うことが許される。心を明らかにするために南無無量寿覚仏と日に二万二千遍誦すべし。これによっていかなる智者仏者が何を言うともはばかることはない。・・・
 -建久四年(1193年)高階将監俊行という人物がこの秘巻を書く-

(2)「山立之由来之事」・・マタギと空海の説法(万三郎出てこない)
‐省略‐
(3)「亦儀巻物」・・秋田県昭和村に伝わる(山立根本巻・山立之由来之事融合)

 桓武天皇の御代に万事万三良という応神天皇三十四代の末孫が、日光山の麓で猟師をしていた。日光権現の依頼で赤城明神を負かすと、出羽の湯殿山へ参拝を勧められたという。
 万三良が湯殿山へ着くと、年老いた老僧となって現れた本尊が「我が弟子弘法が入唐し近頃帰国した。独鈷は大和奈良にあって問題はない。しかし、鈴が見つからない。高野山にあるはずだから行って見つけ出して弘法大師に渡してくれ」と言って姿を消した。
 万三良はさっそく高野山へ急いだ。途中の道で白犬に出くわし尾を振って先に立っていく。高野山中で天を見上げ吠えるので見ると木の枝に鈴がかかっていた。
 弘法大師は鈴のあったところに開山しようと思っていたが、見つけることができなかったのに、犬が見つけたとは不思議なものだ。・・・云々
・・・無事弘法大師への諸事を済ませた万三良は日光権現にこのことを伝えるとともに湯殿山へもどった。万三良は日光山も湯殿山も神仏の聖地であるので、殺生を業とする狩猟民の狩場には好ましくないと考え、奥羽山脈を拠点に居をかまえたという。

※これらの巻物は秋田岩手など各方面のマタギ一派(6名から12名編成)の頭目(シカリという)に代々伝わっていたものである。
 マタギの世界では頭目の指示は絶対であるなど掟も厳しいとあるほか、頭目はこの巻物マタギ容姿を大切に保管し、狩猟のため山に入る際に(山立という)常時携帯し、生業の正当性を誇示あるいは主張したものと考えられている。
 山立がはじまれば藩境や国境を越えることなど普通(旅マタギともいう)だとあり、山中で突然にしてとがめられた時においても「磐司磐三郎以来の・・由緒。我等は後継者、責めにあらず!」と口述したに違いない。

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