秋保の歴史

歴史的人物

知足上人

 大滝不動堂の開山の祖である行者知足上人は、俗名を佐藤太作といい、 天明八年佐藤太兵衛の長子として深野屋敷に出生した。 この家は寛永検地で隼人という先祖が竿答を受け、その後新田町に三軒の血縁分家を出した。 これらの分家は間もなく廃屋となったが、野口の袋原・加沢向宿・湯元(佐藤屋)には、 この家の分家と称する佐藤姓の旧家があり、今でも親類付き合いを続けている。
太作は幼い頃から親孝行で、ある時母が眼病を患ったので、それを治そうと大滝に参籠し断食して眼病の平癒を祈ったところ、見事に全快した。 御不動様の御利益に感激した太作は、家を弟の太吉に譲って、 馬場西光寺で剃髪得度して名を岳運と改め出家した。 岳運は大滝の北岸にそびえる大岩山の洞穴で37日間の断食修業を行ったあと、 出羽の羽黒山におもむき、荒沢で一千日の穀類断食の苦行を修めた。 こうして行を重ねること十四年にして空中飛行の道法を身につけ、 人々から木食上人と称されるに至った。上人は、文化元年から文政五年にかけて諸国を巡錫(じゅんしゃく)したが、 その間文化八年には馬場村村民の協力を得て大滝の近くに「日本廻国供養」として大聖不動明王の見上げるばかりの碑を建立している。 そして文政八年(1825年)信者の浄財によって不動堂の建立を見るに至った。 次いで上人は、北目町の大出屋こと津田甚四郎に、高さ三十三米に達する不動明王像を鋳造させ、 信者の労働奉仕を受けて二十五粁の山道を運び上げ、翌年開眼供養を行った。
しかし、文政11年九月五日上人は、大滝の瀑口から身をおどらせて投身遷化した。 この時付近の山で働いていたきこりたちは、只ならぬ音響に驚いて思わず大滝の方向を向いたところ、 上空に上人の姿がありありと立っているのを目撃したという。


秋保氏盛

 氏盛は、通称を平三郎、後に玄蕃、更に外記と改めた。 延亨元年秋保家別家秋保権兵衛盛之の四男として生まれ、宝暦五年11歳の時、 本家の雅楽良盛の死亡に伴い、その養子となり、御一家秋保家を継いだ。 氏盛は、姓貞良温恭で人に接するに常に謙譲をもってし、 また、威風凛々としてあたかも風が竹を偃せるが如きであったとう。 宝暦13年より藩に出仕えし、明和2年御申次兼近習、同8年御小姓頭、 安永2年若年寄と累進して安永5年奉行職に就任、五百石を加増、役料二千石を賜った。 天明元年には、知行高のうち二百二十石を本領長袋村へ知行替えとなり町場を賜った。 現在の舘部落は、この時原形ができ、秋保家主従が軒を連ねるようになった。 同3年には御国許御繰合方主宰を命じられた。時あたかも藩財政は破綻し、 加えて大飢饉襲来して艱難辛苦を極めたが、同六年その労が報いられて知行千石に増加された。 しかし御一門寺池伊達家の家政監督を命じられて内紛に巻き込まれ、寛政二年職を退いた。 病気全快後再び奉行に任ぜられたが、寛政11年2月8日急逝した。享年55歳であった。 従来秋保家は、その家柄にも拘わらず、何の役職にもついていなかったが、 氏盛のようにわずか三百石で奉行になったのは少ない。藩主重村逝去の時には、 法事の代拝願いをだしたが、「家並之方」でないからという理由で却下されている。 天明五年には領地の菩提寺大雲寺の中興開基におされた。大立目盛行の女との間に二男七女あり、 長女は伊達村良三女は伊達村義へ嫁いだ。その後を継いだ昌盛、次の賢盛と、 代々氏盛の功績にあやかって外記を称している。


岡崎栄松

 明治15年12月22日岡崎栄作の二男として長袋村町南に生まれる。 宮城師範学校より日本大学に進み、同42年卒業後、丸森小学校訓導・岩手山小学校・桃生郡視学を経て大正五年県視学となった。 転じて同8年より官界に入り、横浜市役所を振り出しに、東京都社会局保護課長・同福利課長・監査課長・下谷区長・大森区長・電灯部長を歴任した。 その間昭和2年には財団法人日本栄養協会を組織している。 昭和十八年郷里に帰って宮城県商工経済会理事長に就任、次いで昭和二十一年六月公選による初の仙台市長に選ばれた。 たまたま仙台は空襲によって一望廃墟とかしていたが、氏は四期に亘るその在職中再建・復興に全身の心血を注いで、 仙台市の特色を保持しながらも東北の首都としての近代都市の基礎を確立した。 また実現こそしなかったものの、昭和29年には、大仙台市建設構想をたてて世の注目を浴びた。 この間東北七県市長会会長・全国市長会副会長等の要職を兼任した。 昭和35年4月28日逝去、享年77歳。長袋戸崎の岡崎牧場には、 生前氏が用いていた書斎がある。氏は、たもとから本を離さず、 また有識者と接触して常に新しい知識の吸収に努め、したがってその考えには柔軟性があった。 下谷で区長をしていた時には、多くの芸術家と交わり、私財を投げうってその育成に努めた。 また晩年は宮城教育大学の創設にも尽力し、開校記念として石灯篭の寄贈を受けている。


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