秋保の歴史

二口街道の歴史

ニロ番所跡とニロ峠

ニロ番所跡とニロ峠
所在地:仙台市太白区秋保町
 藩政時代、藩の境界には藩内の治安維持と物資の不法流出を防ぐ目的で、他の街道と同じように番所が設けられた。秋保郷を横断するニロ街道では、長袋・馬場・野尻といった宿場集落ごとに番所(検断)が置かれたほか、山形越えの最後の検査所としてニロ番所が設置されていた。ニロ番所は、山伏峠(山寺道)と清水峠(高野道)に分かれる追分に築かれ、街道を隔てて2軒の御境目守の番所が向かい合い、山形領との間を行き来する人馬や物資の検閲を行っていた。
番所には「ぬき門」が立ち、通行人はそこから出入りするようになっていたというが、今では植林された杉林の中、番所の回りに巡らせた石垣が僅かに当時を偲ばせるにすぎない。
ニロという名称は、御境目守の番所跡の隣接地の追分からくる。街道はこの番所で2つに分かれ、一つは山伏峠(山寺道)を越えて山寺へ、もう一つは清水峠(高野道)を越えて高沢を経由し、いずれも山形市風間で帯び合流し山形市内へと至る。
ニロ番所の追分の道標をすぎると、街道は傾斜のきつい急な登り板となり馬の能力を越えるため、物資は馬の背からすべて「しょいこ」といわれる人の手による輸送手段に切り替えなければならなかった。特に冬期間は深雪のため通行が困難であったといわれている。

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十三仏の碑

十三仏の碑
所在地:仙台市太白区秋保町
 長袋神明神社前を南に入る通路をそのまま進行すると東西に走る小幅の道に合流する。この道は旧ニロ街道で、さらに付近には十三仏といわれる石碑が立っていて、秋保郷の飢餓を象徴する悲しい歴史を伝えている。江戸末期、洪水と凶作いわゆる天明の大飢饉が秋保を襲った。飢餓という食料確保の手だてのすべて失った人々があちこちにあふれ、何かにすがるように石神集落方面からやってきたその集団は13人、やせ衰えた体に破れた衣をまとい名取川をやっとの思いで渡り杖を頼りにきびしい坂をはい上がったところで遂には力尽きてしまう。その13人が餓死した場所がここで、供養碑とともに今も人々の手で大切に保存されている。
なお…この時の秋保郷の死亡者は記録があるものだけでも251人、平年の10倍以上とされている。石神地区は4戸の内3戸が、竹之内地区では28戸の内20戸が廃屋になるなど誠にすさまじいものだった。

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