磐司磐三郎物語

中央政権から見た東北地方

3.2 奥羽への仏教の布教と慈覚大師(円仁)の宗教活動

 一方 ・・・そういう奥羽地方であったから、稲作農耕文化の浸透もさることながら、すでに中央集権体制の中では一般的だった「仏教」もまた極めて入りにくかった。
 7世紀後半、平安遷都(奈良から京都へ)の立役者桓武天皇は、政治と権力を強奪しようとする精神が現れた奈良仏教を忌み嫌った。(遷都の最大の原因といわれている)さまざまな苦難ののち遷都に成功した桓武天皇は、政治が安定すると東北地方の制圧・経営に積極的な手段をとる。
 坂上田村麻呂の功績により軍事的な支配を収めた天皇は、仏教の新しい風を送りこみその徳をもって蝦夷を感化させ、東北経営の精神的安定を図ろうとした。(すでに国分寺は全国に配置していたが、あくまでも性質は鎮護国家の象徴的存在で、数も少なく民衆の心の安定にはつながらなかった。)
 桓武天皇は奈良仏教を忌み嫌った。と前述した。
 しかし、比叡山延暦寺開祖の最澄と教王護国寺(東寺のちに高野山金剛峯寺開祖)の空海だけは活動を容認・援助、拠り所にさえした。二人の人格に惚れるとともに、新しく輸入された仏教(密教)をこよなく珍重し・・・・入れ込んだ。
 この二つの宗教活動(平安仏教)は、桓武天皇亡き後も鎮護国家の新しい政策として支援を受け、中世宗教の基盤となった。
 最澄(伝教大師)の弟子が円仁(慈覚大師)(794年~864年)である。  円仁は下野(栃木県)の生まれで、晩年関東・奥州を行脚し、さかんに寺院を建立したといわれている。天台宗開祖最澄の弟子で諸国行脚のあと中国に渡った。天台数学の体系を学ぶとともに、師匠最澄の無念をなし遂げるべく密教体系のすべてを習得し帰国した。
 最澄亡き後、天台座主(天台宗総主)となった円仁は宮廷直属の僧となるなど大いに活躍し、天台密教の祖として仰がれた人物である。
 円仁は清和天皇から、北関東から奥州の鎮護のため寺を建立するよう勅許を賜ったと山寺立石寺の由緒にある。(松島瑞巌寺・平泉中尊寺・象潟○○寺など今もなお名刹とされる寺をはじめ北関東から東北地方には円仁開基の寺が多いことからも、円仁の宗教活動は国家事業的要素が強かったと推察されている。)

天皇
僧侶

 二口山塊を構成する山形側に山寺がある。
 天台宗比叡山延暦寺別院の立石寺は、東日本天台宗の道場として全盛期には僧侶一千名を抱えたという寺で、今もなお参詣者の絶えない名刹である。
 開基は円仁(慈覚大師)で、しかも山寺は官寺であった。京都平安京直轄の官寺で、平安仏教を布教しながら奥羽鎮護或いは蝦夷安定のための手段として奥羽山中の拠点として築かれた。当時官寺としては天台宗比叡山延暦寺と東寺(真言宗教王護国寺)・西寺(後に衰退)が有名であるが、奥羽の辺境にもかかわらず官寺が設置された。時の天皇(清和天皇)の心境が推測される。
 円仁は生涯の中で二度、北関東から奥州にかけて弟子を率いて巡錫したという記録がある。一度目(829年)は渡唐留学前、北関東(誕生地下野)辺りまでと考えられ、二度目(856年)は53歳で帰国した後と推察されている。しかし、晩年の円仁は平安仏教界の重要人物として多忙を極めたとも言われ、弟子たちの目覚ましい活動もまた、円仁という人格の中に各地で躍動したと考えるのが普通で、円仁単独のものではないと推察するのが一般的である。
 当の山寺においても開基は円仁、開祖は安慧(あんえ)とされている。(山寺由緒)安慧は円仁の弟子で、円仁亡き後天台座主となった人物で「出羽講読師」として、山形に下向滞在したことが記してある。山寺開山に大きく貢献したのはこの安慧だという説が通説である。
 さらに円仁は最初の二口巡錫の際に、「実玄」と「心能」という弟子を同行させ、山寺発見の後この二人を現地に残留させたとある。実玄は千手院と山王院を創建、心能は安養院を創建し師命にこたえた。その後安慧が赴任して後輩たちを励ますとともに本格的な山寺開山をとげたとある。そしてもう一人円仁の弟子に安然と人物がおり、円仁なきあと奥州における円仁開基と伝わる寺をことごとく巡錫し、立石寺においては五大堂を創建したとある。

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