磐司磐三郎物語

中央政権から見た東北地方

 北関東から東北の奥羽山系の各地に残る磐司磐三郎伝説の舞台は、広大な活動範囲を有し自然の恵みをうけながら、豊かな東北山岳民俗の生活文化を伝えている。
 磐司磐三郎の生きた時代、日本史の中ではどうゆう位置にあったのだろうか。伝説の中の重要人物「慈覚大師円人」の生きた時代、8世紀から9世紀の東北地方と大和政権にスポットをあてたい。


3.1 大和政権(大和朝廷)と東北地方

(1)古代日本・・・・

 九州に上陸した弥生式水田農業を生活の基盤とする集団は、徐々にその勢力を広げ瀬戸内海を東に進んで、7世紀のはじめ奈良盆地に中央集権国家(大和朝廷)を樹立する。8世紀には、その拠点を京都へと移し現日本の骨格をつくっていくのである。
 この奈良で発祥した天皇を中心とする中央集権体制の文明思想は、稲作農耕文化を生活基盤の最先端とし、米を作り租税を納める集団のみを正義とした。稲作農耕文化のみが王道であり狩猟採取文化を巧みに感化させながら、畿内から関東へとその後も順調に支配を広げた。
 ・・しかし、関東地方を過ぎるとに急激に失速する。
 この頃、関東以北東北地方は、いまだ狩猟生活集団「蝦夷」が盤踞する奥州である。

‐‐中央政権の東北経営‐‐
中央政権の東北経営

 生活の基盤を狩猟採取に置き、広大な山野を駆けまわっているものは夷(えびす=未開人)であるとした。取り分け山の幸によって生きる縄文的な生活様式をかたくなに踏襲する連中を山夷と称し(「蝦夷」という名称もこの辺りからくる毛人ともいう。)奥州はまさにその一大拠点でこの頃の聖地とさえ言っていい。

◎景行天皇(日本武尊の東国遠征に際して・・)「日本書紀」

「わたしが聞いているところでは、東夷は性質が荒々しく、略奪を業とし、村に首長がなく、山には邪神が住み、平野には鬼がいて道をふさぎ人を苦しめているとのこと。冬は穴に宿り、夏は木の上に巣を作り、獣皮を着て、獣血を飲み、山野を鳥や獣のように飛び走り、恩をうけてもすぐ忘れ、恨みには必ず復習し、付近の住民の農家を略奪し、弓矢や刀を隠し持って集団を組み、討伐すれば草原にかくれ、山地に逃げ込むので手のくだしようがないという。東夷のなかでも蝦夷という集団が最も強暴と聞く。」

◎空海(奥州行脚の記録)

「日本麗城三百州、なかでも陸奥は最も柔げがたし。
天皇赫怒し、幾たびか剣を按ず。
やつらは髻(頭髪を束ねた状態)の中に毒箭を挿し、
手をあげるごとに刀と矛を執り、田せず衣せず、鹿やとなかいを逐う。
馬を走らせ刀を弄すること電撃のごとく、弓をひき、
箭を飛ばす誰か敢えて囚えん。」
奥羽蝦夷を見る目、まったく失礼極まりない
「奥州の連中は租税を納めない。聞く耳さえ持たない!
何とも許しがたき奴ら、征伐して租税をとれ」
と中央集権体制は憤慨した。

(2)かくして7世紀(658年)・・・・・

 大和政権(奈良盆地)は阿倍比羅夫に水軍をひかせ日本海を北上、秋田青森付近まずは沿岸地域から徐々に中央集権体制に組み入れる。
 8世紀(724年)には多賀城を設置、東北経営の拠点を築くとともに大野東人さらには坂上田村麻呂らを奥州征伐の総大将にして、蝦夷征伐に全力をつくす。中でも坂上田村麻呂の武勇とその功績は甚大かつ有名で、蝦夷の総大将アテルイとの壮絶な戦いに終止符をうち、今の岩手県水沢付近までを一挙に支配に納め、中央集権体制の北限として強靱な胆沢城(城柵)を築き、開拓農民(新田開発)を護った。
時の天皇(桓武天皇)は歓喜したに違いない。

(3)この頃の秋保・・・・・

8世紀から9世紀の秋保の郷は、欽明天皇(539年頃)によって秋保温泉に「名取の御湯」の称号がすでに賜れ、多賀城開府によって東北の安定に積極的な政治体制のもと、開墾移民の集落形成とあわせ、和歌によって紹介された秋保温泉は、大和中央官庁から派遣されてくる官人の保養遊楽の地として、徐々に人が住み着きはじめたころと推察される。
 さらに秋保温泉より以西、長袋から馬場においては野中に熊野神社(現秋保神社)が坂上田村麻呂によって勧請された(808年)とあり、分社された祠を護り崇拝すべくわずかな人が住み、どこからともなく水を引き地べたを堀り起こしては水田の開墾をはじめ、極めて小さな集落を形成しはじめたとものと想像したい。(名取川流域の秋保は磐城郷(713年)と称されたとあり、福島いわき方面からの開墾移民によって水田の開墾がはじまったと推察されている。=和名類聚抄により)
 しかし馬場滝ノ原より以西においては人は住んでなかっただろう化外の地で、まして野尻二口は中央集権体制から完全に越脱した、蝦夷の割拠する本拠地にふさわしい山容をなしていたことからも、磐司磐三郎(兄弟?)なる東北山岳民族の主がいたにちがいない。
 蝦夷文化を引き継いだと思われるその集団は、多賀城や岩手胆沢城による東北経営が及んでもなお、豊かな山の幸によってその生活を維持していたことが容易に想像でき、
磐司磐三郎という二口山塊先住民の・・・・雄大な伝説のロマンがそこにある。

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